ちょっと興味深いニュースが飛び込んできました。
赤字になっている和食チェーンの大戸屋と、大株主のグループ会社のコロワイドが揉めているんだそうです。
その主たるものが、お店の昔ながらのポリシーを守るため、各お店のキッチンで調理をしたい大戸屋と、黒字にして利益を上げるため、セントラルキッチンでまとめて調理をしたいコロワイド、という真逆の方向性。
お店のキッチンで切ったキャベツはおいしい、という大戸屋と、お店で切ってもセントラルキッチンで切ってもキャベツのおいしさは変わらない、というコロワイド。
みなさんはどちら派ですか?
味は同じかもしれないけど、味以外の何かが違う
私の職業はレストランの料理長。
生まれつきお料理が大好きで、生まれて初めて包丁で手を切ったのは3歳の時です。
ちょうど目の高さだった台所の作業台。
テーブルに両手を手をかけてグイッと背伸びをし、台の上を見ると、そこにまな板と包丁が見えました。
母のヨシコがいつも使っている、ビンビンに研いである包丁です。カミソリみたいに切れるやつ。
3歳の私は、手を伸ばしても取れない位置にある包丁をとるために、右足を箱か何かにかけ、左手でテーブルを支え、右手を包丁に伸ばして「刃の部分」を掴みました。
そして、その「右手で刃を握っている包丁」を、左手で柄をひっぱって抜き取った。
激しい痛みを感じ、びっくりして右手を広げると、手のひらに定規で引いたような一直線の切り込みが入り、その傷口からジワーと赤い血が滲み出してくるのが見えました。
ギャーーーー!と泣き、母ヨシコが大慌てで飛んできて、そこでいったん記憶が消え、そのあとは泣き疲れてびしょびしょになった目で、包帯でぐるぐる巻きにされた手を見たのを覚えています。
生まれて初めて包丁で切ったのが、自分の手だったのでした。
まあ、それはさておき、大戸屋問題。
ほんと、これは証拠がないので、なんとも言えないんですが、心を込めて作った料理というのは、味以外の何かが入っている気がします。
見えない、幽霊みたいなもの。
そしてその違いがわかるかどうかは、人による。
食にこだわる人はその違いを薄々感じていて、こだわらない人はそんなに感じてない気がします。
たとえばおにぎり。
友達のりえちゃんが、「うちのお母さん、料理が本当に下手で、何を作っても不味いんだけど、遠足のおにぎりだけはおいしかった」と言ってました。
なんか手から出てるのかな?
きっとそうだよね。
うんうん!
とその場は楽しく話して終わり、だったんですが、あれから何年もたった今も、料理をしている間に繰り返し繰り返し思い出し、地縛霊のように私の心に染みついたままとれません。
めちゃくちゃ不味いカツカレーを食べにいった
以前うちのキッチンで働いていたワーキングホリデーの男子が、あるロンドンのレストランにカツカレーを食べに行き、「めっちゃくちゃまずかった!」と言っていたことがありました。
「カツカレーがそんなまずいなんて、ある??」
「いやー、ほんとにおいしくなかったんですよ。」
というので、私は興味津々、次のお休みの日にひとりでそのカツカレーを食べに行きました。
その日本食レストランはロンドンのブリクストンという街にあります。
ブリクストンはブロック塀に派手な落書きがしてあったり、薄暗いアーケードの中に古いマーケットが迷路のように並んで、あちこちから魚や変わった匂いがただよっているようなところです。
雑多というのがぴったりな場所ですが、マーケットにはおいしいお店も多いし、人が多くて活気のある街です。
レストランに入ると、席数が30席ぐらいのシンプルでこざっぱりした客席。
ランチでもディナーでもないへんな時間帯で、お客さんは私ひとり。

遠目にまっすぐオープンキッチンが見える、窓際の席を選びました。
運ばれてきたカツカレー、見た目ゴージャスです。
キレイに盛り付けられていて、スパイスのいい香り。
え?これそんなにまずいの?
と、食べてみましたが、普通においしい味です。
めちゃくちゃおいしいかと言われたらわからないけど、まあまあおいしい。
チキンカツもちゃんとカラッと揚げてあります。
お会計を済ませ、外に出ました。
その時、なんとも言えない虚しさがこみ上げた。
なぜかわからない。
でもなぜか、「やなもの食べちゃった」という気分になった。
何この気分の悪さ。。。?
これか、彼がまずいと感じたのは。
味じゃなくてこの虚しさだったんだ、思いました。
そう言えば、彼は普段から、私がいい気分で作ったまかないは、「おいしい、おいしい」と興奮して食べていました。
だけど時間がない時にめんどくさいな、しょうがないなと作ったものは、黙って食べます。
同じまかないならレシピはいつも同じ。
彼はこのことには気がついていないと思いますが、料理を作った時の私の気分を、食べ物から感じとっているように見えました。
食べ物には味以外の何ものかが含まれるのだと思います。
それは天使かもしれないし、悪霊かもしれない。
強く感じる人もいれば、感じない人もいる。
セントラルキッチンで切ったキャベツやコンビニのサンドイッチには、何も含まれず、ニュートラルな味になるのかもしれません。
でもお店で切るキャベツには、愛情を込めることができる。
そういうことなのかな、と。
千と千尋のハクのおにぎり
親しい友達や後輩が、失恋や流産の強いショックで何も食べられなくなる、ということが過去に何度かありました。
そんな時は彼女たちの悲しみが「どん底」すぎてなにもできません。
どんなに言葉に愛情を込めても、彼女たちを慰めることはできません。
ところが、言葉ではどうにもならない彼女たちの悲しみが、手作りのお弁当でかなり和らぐことを私は知っています。
何も食べられない状態なのに、作っていったお弁当はちゃんと食べてくれる。
そして食べ始めるとすぐにポロ・・ポロ・・っと涙をこぼし、すぐに滝のような涙を流しながらながらわーん、わーんと泣いてしまいます。
もし大好物のお弁当を「お店から買っていって」食べてもらったら、同じように慰めることができるでしょうか。
千と千尋の「ハクのおにぎり」のシーンで、みんながもらい泣きをしてしまうのもこの感情が伝わるからだと思いませんか?
手作りの料理には、何か目に見えないものが入っている、そんな気がするんです。
だけど、それとビジネスとは別の話
でもそれとこれとは別の話で、大戸屋さんとコロワイドさんの件は、赤字をなんとかしないといけないんですよね。
何が問題かって、ちゃんと向き合って話し合わないのが一番の問題なような気がします。
大戸屋さんはキッチンでキャベツを切りたい。
私は自分の仕事がこちらに近いので痛いほどよくわかります。
コロワイドさんは、自分の株をもつ会社をきちんと黒字にしたい。
でもお店が潰れたら元も子もないですから、当然です。
うーん。
私にはキャベツの味が違うかどうかはわかりますが、お店のキッチンが正解なのか、セントラルキッチンが正解なのか、ちゃんとした答えは存在しない気がします。
一番いいのは、キッチンでキャベツを切りながら、黒字にする方法があるといいですけどね。
10年前の大戸屋と、3年前の大戸屋
過去に大戸屋さんで食事をしたことが2回あります。
一度目は10年ぐらい前で、私がイギリスに移住して8年目ぐらいのことです。
久しぶりに日本に帰って、東京の池袋で友達に会い、ご飯どこに食べに行く?ということになって「すごくいいお店があるよ!」と大戸屋に連れて行ってもらいました。
その時の衝撃は忘れられません。
お家で食べるような焼き魚と大根おろしがついた定食が出てきて、私が知らないうちに、こんな家庭料理が外で食べられるようになったんだ、と大戸屋をとても気に入ったのを覚えています。
二度目はそれから7年後、2017年の12月です。
こちらは確か羽田空港で、一緒に帰国し、大戸屋が大好き、どうしてもすぐに食べたい!という友達と日本に到着そうそう大戸屋に入りました。
ところがこの時、食事した友達は「大戸屋は変わってしまった。もう行かない」と言っていた。
私も7年前に行った時とは印象が違っていて、もう行かないかな、と思いました。
大戸屋の大ファンの友達と、大戸屋に一度しか行ったことがない私。
その全く立場の逆な2人が2人とも、「もう行かない」と思ったわけです。
特に何かはっきり悪いところがあったわけではありません。
ちゃんとした理由はわかりませんが、一度目の時のようなまた行きたい!という気持ちにならなかった。
私たち感じたこの気持ち、大戸屋さんの赤字と何か関係があるのでしょうか。
それを考えると、説明のつかない「キッチンでキャベツを」というのも、こだわる理由になり得るのかもしれません。
半年間セントラルキッチンにしてみて、黒字にならなかったらお店のキッチンに戻すとか、条件つきで受け入れてみるのはどうでしょう?
大戸屋問題、皆さんはどう思いますか?
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